質の悪いものを自分の耳に入れることの弊害と本当のプロフェッショナルについて

ピアノ塾

こう、はっきりと表現することに抵抗がないわけでもないのですが、今日のお題です。

「下手くそな演奏は絶対に耳に入れては行けない」

とは私の大好きな恩師の口癖でした。
詳細は伏せますが、私が10代に大きな影響を受けた、大好きな先生のお言葉です。彼女は、かなり厳しい方で、「下手な演奏を聞くと確実に耳が腐る、絶対に耳に入れるな」という主義の持ち主でした。

よって、全然プロフェッショナルでない学校での合唱クラブに入会する事もダメ、おつきあいで自分の教授のご友人のコンサートに行くのはお付き合いなので仕方がありませんが、(耳栓をしろとはいわないまでも、真剣に聞かないこと)一流とされていない(ハッキリ言えば、ポリーニとかアルゲリッチではないレベルの)人の演奏会に行く事をとても反対されました。

私は彼女が大好きだったので、疑いもなく従いました。そして、恐れずに言えば、それは、今でも実行しています。なぜなら、それが私に心地よいからです。

個人的に知っている人の演奏会であれば、喜んで訪れます。それはもう、上手いだ下手だのそう言うことは関係ありません。その人を好きで親しんでいるので、別にアルゲリッチみたいに上手くなくても良いのです。その人の努力、背景を知っているので、全く違う観点で演奏を楽しみ、美しい、と感動して涙することもできるのです。

SNSなどで仲良くさせていただいて、その方なりを知った上で演奏をお聞きすると温かい気持ちになるのですが、見ず知らずの方の演奏を聞いて、楽しいだ、美しいだと思えるほど私はこの歳でも人間的に成長していません。耳から入ると、嬉しくない気持ちの方が優先してしまいます。これはもう、子供の頃からの習慣で、ダメなものはダメ、なのです。なので私は、よほどのことがない限り、今でも知らない人の演奏会にはいかないのです。

某オーケストラのオーディションで「今回の受験者はみんなすごく上手だった」なんて試験官をした団員の人に聞くと、その受験者の背景をよく知っている私からしてみると、「ああ、もう、この人は耳が違うんだ」と思わずにはいられません。そういうことです。あるレヴェルの音楽ばかり聴いていると、耳のレヴェルもそちらに移行してしまう……
具体的に言うと、判定がかなり甘くなってしまうのです。自分の判定が甘くなりたくない、これが大きな理由です。

さて、しかしながら、どんなに下手くそを聞いても動じないプロフェッショナルな人のお話をします。

もうかなり昔の話ですが、有名なヴァイオリニストである五嶋みどりさんがウィーンにいらして、マスタークラスで教えたことがあります。その時の受講生は、なぜか全員かなりレベルが低く、音程もひどく、暗譜も出来ていない、みどりさんがウィーンで教えるのにはあまりにも残念すぎるレベルでした。それが2日間、朝から午後まで続きました。

なんとこのハードなマスタークラスの同日の晩に、彼女はムジークフェラインの大ホールで、オーケストラをバックにチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトを演奏なさったのですが、その演奏は2晩とも絶品でした。現地紙も大々的に取り上げ、絶賛していました。

あんなに酷い生徒を山ほど教えた後、1時間もたたないうちにあの大ホールで素晴らしい演奏をなさったみどりさんは本当のプロフェッショナルです。演奏後に楽屋で、「どうしてそんなことが可能なのですか?」と伺った私に、優しく微笑んで、「大丈夫よ〜」と仰っしゃった笑顔を忘れることができません。当たり前ですが、彼女は本物のプロフェッショナル、素晴らしい憧れのヴァイオリニストです。

彼女のようになれるのはかなりの経験が必要だと思います。
凡人の私はやはり、あまり変われない気がします。