私は手が小さいです。そして指も短い方だと思います。身長は160cm以上あるし、靴のサイズだって日本でいう24.5cm。日本人女性としては、そんなに小さいわけでもないのに、「手は小さい!!!」
左手はなんとか9度(ドからレ)がとどきますが、右手はオクターヴがやっとです。よってプロコフィエフの戦争ソナタなんて、物理的にどうやったって弾くことができません。こればっかりはもう、しょうがない。悲しいけれども、無理なものは、無理。
ザルツブルクのマスタークラスで、なんでもはっきり言う某教授がある学生に
「物理的に弾けないものをなんで選んだんだ。弾けないものは選ぶな!!!」
と言っていたのを聞き、「そんな悲しい現実を、ダイレクトに言っちゃうなんて」と驚いたと同時に、「本当にそうだ、弾けるものを選ぶしかないし、それが現実なんだ」と、当たり前のことに気がついたものでした。
絶対に無理なことを、なぐさめてもなんの意味もない。それでもピアノを選んだのだから、自分に弾けるものを選ばなければ、と思ったものです。
幸いなことに、ピアノには莫大な作品量があるので、「弾くものがない!」ということにはなりません。
さて、そんなこんなで悩んだ小さな手ですが、これは大きければ良いというものではないことを、外国に来て痛感しました。
ある中近東出身の高校生の男子生徒は当時、かなり太っていて大きかったので、鍵盤に指がはまらないくらいでした。だから私の指使いではダメで、こういう人はいくら10度が楽勝に届いても、他の苦労があると思ったものです。
オクターヴが届かないくらいだときついですが、子供のうちからかなりの練習量を積めば、ある程度成長が促進されて、カバーされていくということと、正しく指導されれば、かなり弾けるようになる、ということも忘れてはいけません。
指輪が取れなくなった時に、脱力すればスルリと取れるのと同様、無駄な力が入っていなければ複雑な和音も結構抑えることが可能になります。手の角度を変えてみたり「ガンバッテつかもう」という意識をやめるだけで、あら不思議、弾けたりすることもあります。
反対に、いくら手が足みたいに大きくても、離鍵がとろかったら、扁平足のような手を持っているのと同じことです。機敏に軽くうごける、小さめの手では、シャンパンの響きのようなテクニックを駆使してモーツァルトを美しく軽やかに演奏することが可能です。
今更ですが、ピアノを弾く手は、大きければ良いというものでもありません。もちろん、大きな手で機敏なテクニックを持っていれば最高ですが、それがなかったら、全然意味がないのです。
日本から留学している、そんなに手も身体も大きくない、優秀な学生さんたちにマスタークラスで出会うことがありますが、彼らのテクニックは欧州の学生よりもすぐれていることがしばしばあります。
その人たちが欧州で素晴らしい教授に師事し、音楽的なテクニックをさらに身につけると、それはもう魅力的な演奏をするピアニストに成長するのです。
彼らがもとから馬鹿でかい手をもっていたら、その技術を習得する機会はなかったかもしれません。手は小さめかもしれませんが、日本人にピアノは向いている楽器なのかもしれないと、最近思うようになりました。
自分に不足しているものを補うために努力すること。これは大変なのですが、最終的にはおおきな成果となって現れるような気がします。(それでもやっぱり生まれ変わったら大きな手で、思いっきり弾いてみたいな、やっぱり思うのですが!)