ピアノにしてもヴァイオリンにしても、スポーツ系の他の分野においても、その指導者の言葉はいつも魔法のように響きます。
「素質があります」とか「才能があります」なんていわれた時には心の中にお花畑が咲き乱れ、乱舞したくなるものです。
特に子供が反抗期だったり、家で全く練習しなかったり、または金銭的な理由でこのままお月謝を注ぎ込んでもなんになるのかしら、と迷いが生じているときは特に、この魔法の言葉は「止める」という選択にブレーキをかけてくれます。
「うん、経済的には苦しいんだけれどね、先生がうちの子は才能があるから今やめたらもったいない、っておっしゃるのよ。だからね、続けさせてるんだけれどさ、」
みたいな感じです。
私も似たようなものでした。
思い通りに毎日の練習ルーティンが回らない時、子供の反抗が酷かったとき、先生によく聞いたものです。
「このまま続ける意味があると思いますか?」
この質問の裏側には、「見込みがあるから、やめるのはもったいない」と言って欲しいという、毎日のバトルに疲れ果てた悲しい母の心の奥の叫びがあります。
当時のロシア人の先生はあっさり、
「子供なんてみんなこんなもんよ。よし、私が言ってやる」
といって「ママの言う通りに練習しなかったら、もううちのクラスにいちゃダメ!私は監視カメラをつけていて、あんたがママの言うことを聞かないのをいつも見てるのよ!」
くらいの脅しをかけてくれたものです。
それがまた、機能するので立派な先生だったのですが(笑)
何が言いたいかというと、子供に素質があるとか才能があるなんて言葉は無意味なことだということです。親はその言葉を宝物のように心に持ち続け、将来、その子が何にもならなかったときに先生の(他人の)せいにするのです。
「あの時、才能があるっていったのに!!!」
ヴァイオリンで特に教えないのに初めから左手のフォームが綺麗な子もいるし、ピアノの構えが教える前から自然にできちゃってる子は実はたくさんいます。
それは才能でもなんてもなく、ただ、たまたま、そうなだけなのです。
でもそれが冷静に受け止められない精神状態の時って、誰にでも巡ってきます。
欧米ではよく、日本語の「才能がある」という訳になる単語を使いますが、軽い気持ちで使われます。極端な話、「子供には全員、才能がある!」的な感じです。
だから、それをいわれて「外人先生に褒められて、うちの子、天才かも?」と舞い上がるのはちょっと危険です(笑)
じゃあ、スランプになった時、レッスンを続けるためには何が必要なの?と思いますが、それは目に見えない期待ではなくてもっと現実的な事です。
周りの環境により、専門の道に行く可能性の高い子供であれば「正しい実績のある指導者」と「曲がらない親のサポート」
一生音楽を趣味で楽しむための子供には「正しい基礎を教えることができて、長く付き合える相性の合う指導者を見つける」
ことではないかと思うのです。
でも、嬉しいですよね。お世辞でも「才能のあるお子さんです」っていわれると。。。。。