日本で愛される「バリバリ弾く」について、ちょっと考えること 日本(アジア)と欧州の好まれる傾向の違いについて私見

ピアノとヴァイオリン

「あの人って、何でもバリバリ弾けるのよ!」「あ〜、早くショパンの木枯らしエチュードがバリバリ弾けるようになりたい!」「バリバリ弾けてカッコいい!!!」こういう言葉を日本ではいつも耳にしてきたし、私も日本に居たときは普通に言っていたと思います。

しかし、何十年もウィーンに住んで、ロシア・東欧・中欧の教授やコンクールの審査員、学生、の発言から、語学の表現の違いはあるとしても、ちょっと「バリバリ」は聞かないかな、と思うようになりました。人がクラシック音楽を聴いて「素敵!」と思う箇所に、価値観が違うところもあるのでは?と思うようになりました。

こちらでも、私がちょっと有名な速い曲を生徒の前で弾くと、小学生あたりからは「かっこいい!」とか「クール!」という反応がくるのですが、多くの人は、かっこよさげなテンポの速いものよりも、美しいメロディーに反応することが多いです。例えば、ショパンでも革命エチュードよりも、ノクターン、に感激をする人の方が多い気がします。

この反応は、どうやら趣味でクラシック音楽を愛する人達だけではなさそうです。

某、コンクールにずっと携わっていた時の話です。
そのコンクールは、受験者が弾き終わった後、すぐに審査員が点数を表示する採点方法でした。見ていて非常に興味深かったのは、多少音を外しても、音楽的な演奏には点が高くついていたこと。そして例え、ミスが少なくても、仏頂面で初めから終わりまで同じようなmfでそれこそ「バリバリ」弾く人にはかなり悪い点がつけられていました。これはもう、面白いくらい分かりやすく、逆にどうしたら点が取れるかが手に取るようにわかったものです。

極端な例でいうと、世界中で人気のある、あるバリバリ系女流ピアニストは、私の見る限り、ウィーンでは、思いっきり人気がありません。私もそんなに興味がないのでコンサートを訪れたことはないのですが、知り合いの教授が「本当に嫌だわ」と吐くように言い放ったのが印象的でした。

先日は、コルトーやドホナーニのテクニックについて触れたのですが、これらの本来の目的は「バリバリ弾くため」ではない、と私は思っています。(まあ、バリバリ弾けるようにもなるんだろうが)楽器における技術というものは、音楽的な表現をするためのツールであって、目的ではないからです。だから、コルトーのメソッドをバリバリ速弾きしたり、そういうものは聞きたくないし、違う、と思うのです。そして先の練習は指の独立であって、美音を求めるものでもないです。美しい音のテクニックは、ロシアンシューレでいうレガート奏法などで、またちょっと違うアプローチのものです。

それでも、多くの人が感激するパフォーマンスとは、個人差があるとはいえ、最終的には同じようなものではないかとも思います。私はやっぱりこの歳になって「バリバリ」よりも、美しい物が好きです。誤解を恐れずにいうと、正しいテクニックがあれば、速かろうが遅かろうが、なんだろうが、美しくあればOKということなんでしょうが。

最後に、日本人が喜んで口にする、「あの人、フルコンが鳴らしきれていないのよね」という言葉を聞くと、『この人、まさかデカい爆音で「どんなもんだい、大きいだろう!私が弾いたら〜デシヘル!!!出せるわ!」ということを言ってるんじゃないでしょうね』といつも不安になる私です。怖くて聞いたことがありませんが。。。